プロ野球通であれば誰もが知る「ハマのモンチッチ」、「ハマのヘラクレス」と異名をもつ吉村裕基さん。
彼はなぜプロ野球を引退をしたのでしょうか?この記事では吉村裕基さんの引退の理由と、その後の職業についてピックアップしました。
ぜひ、最後まで見て下さいね!
吉村裕基のwiki風プロフィール
氏名:吉村裕基(よしむら ゆうき)
生年月日: 1984年6月14日 (40歳) 2024年8月現在
出身地: 福岡県糟屋郡古賀町(現:古賀市)
身長: 182cm
体重: 85kg
投打: 右投右打
ポジション: 外野手、内野手
出身校:古賀北中学校→東福岡高校
所属球団:横浜ベイスターズ→福岡ソフトバンクホークス→デ・フラスコニング・ツインズ(オランダ)→琉球ブルーオーシャンズ(沖縄)→火の国サラマンダーズ(熊本)
最高年俸:推定8000万(2010年 横浜時代)
東福岡高校時代
東福岡高校では高校2年の春の選抜に出場しベスト8。高校通算43本塁打、投手としてもMAX147キロをマークするなど強打者、好投手として早くもプロから注目されています。
横浜ベイスターズ時代
2002年にドラフト5位で横浜に入団。しかし、故障などもあり3年間で通算6安打1本塁打と本来の能力発揮することはできませんでした。
転機が訪れたのは、2006年。外野にコンバートされると規定打席に未到達ながら3割をマーク。
東福岡高校の先輩である村田(千葉ロッテ1軍打撃コーチ)と内川のクリーンナップは、ハマ強力打線と恐れられました。
2008年には自身最高の34本塁打、91打点と、鳴物入りで入団した本来の実力を発揮することができたのでした。
しかし、2010年頃から打撃不振が続き、先発からはずされることも・・・。
そんな中訪れたのが・・・福岡ソフトバンクホークスとの大型トレード。
地元福岡で、再復活するために、吉村選手にとっても良い移籍となりました。
吉村裕基はなぜ引退したのか?
これが引退の理由です。
福岡ソフトバンクホークスでは、2014年のクライマックスシリーズで、全7試合に出場し、打率.429、2本塁打、7打点と活躍。
MVPにも選出され、チームの日本シリーズ進出に大きく貢献しました。
その後、2017年まで在籍していましたが、期待された右の長距離砲としての役割を十分に果たすことができず・・・。
プロ野球選手として結果が伴わなければ訪れる・・・「非情の戦力が通告」
2018年に福岡ソフトバンクホークスを退団後、トライアウトを受けるもNPBからのオファーはありませんでした。
その後、オランダや、沖縄、熊本の独立リーグでプレーをし、静かに現役を引退しています。
火の国サラマンダーズ(熊本)満了後も現役続行を希望していましたが、本人が望むオファーは残念ながら届きませんでした。
2016年に結婚をして家庭を持ち、今後のキャリアを考え現実的な選択をしたのだと思います。
吉村裕基の現在の4つの職業とは?
①福岡ソフトバンクホークスジュニアアカデミーのイベント講師
②母校である東区福岡高校のコーチ。
③野球解説者
④タレント(体育会TVなどに出演)
現在は、福岡ソフトバンクホークスのジュニアアカデミーの「イベント講師」の傍ら、母校である東福岡高校で月に数回コーチとして指導。
また、メディアではTBSチャンネルやスポーツライブプラスの野球解説者として多方面で活躍をしています。
東福岡高校では、生徒への打撃指導で、安打数が増えるなど指導者として結果を残されています。
東福岡の頼れるリードオフマンがチームを勢いづけた。1番和田宙大(ひろと)が4打数4安打と全打席で安打を放ち2得点。5回の二塁への内野安打には「早いカウントで打ちに行きました。足を使って相手を焦らせたかった」と積極的な打撃で11安打7得点の打線を引っ張った。
同校OBで横浜(現DeNA)、ソフトバンクで活躍した吉村裕基氏が4月からコーチとなり、月に数回指導を受ける。「間の取り方を教えてもらって自分の間合いで打つようになりました」と打撃向上の手応えをつかんでいる。
西日本新聞OTTO!より引用
将来、母校東福岡高校の指導者として甲子園で見れる日が来るかもしれませんね。
まとめ
NPB通算131本塁打、華やかに見えるプロ野球で生きてきた吉村裕基選手ですが、彼もトレード、戦力外通行と苦難の連続であったと思います。
その経験が指導者として多くのプロ野球選手を生み出してくれることを期待したですね。今後の吉村裕基選手の動向に注目していきましょう。