大相撲の新鋭・天狼星(てんろうせい)。その名が土俵に響くたび、多くのファンが注目するのは、その実力だけではありません。
彼の父こそ、かつて新日本プロレスで活躍したブルーウルフであり、さらに驚くべきことに、大相撲第68代横綱朝青龍の実兄でもあるのだ。
モンゴルの名門格闘一家に生まれた天狼星は、幼い頃から父の影響を受け、相撲の道へと進みました。
父・ブルーウルフはモンゴル相撲で小結に昇進し、プロレス界でも活躍。そんな偉大な父の背中を追い、天狼星は自身の力で土俵に名を刻もうとしています。

では、天狼星の相撲人生はどのようにして始まり、どんな未来が待っているのか。その素顔に迫りましょう!
天狼星(相撲)のwiki風プロフィール


四股名:天狼星(てんろうせい)
本名:セルジブデー・ルブサンゴンボ
生年月日:2006年9月15日(18歳)※2025年時点
身長:186.0cm
体重:116.0kg
出身地:モンゴル・ウランバートル
小学校:サント小学校(私立・9年制)
中学校:明徳義塾中
高校:明徳義塾高校(日本語コース2年休学中
所属部屋:錣山部屋
初土俵:令和6年11月場所
最高位:番付外(2025年2月時点)
目標の力士:初代若乃花関(小さな体で大きな力士を投げるのがかっこいいから)
好きな有名人:ダウンタウン
好きな食べ物:唐揚げ
嫌いな食べ物:梅干し
天狼星(相撲)の父は?
ブルーウルフ


本名: ドルゴルスレン・セルジブデ
生年月日: 1976年12月1日
出身地: モンゴル
身長/体重: 182cm/115kg
血液型: A型
プロレスキャリアの始まり
- 2001年4月、新日本プロレスに入団。
- 同年8月10日にプロレスデビュー。対戦相手は真壁伸也。
- モンゴル国立体育大学を卒業しており、格闘技の基礎を持つ。
バックグラウンドと実績
- モンゴルレスリング選手権で2度の優勝経験。
- モンゴル相撲では小結に昇進し、優れた実力を証明。
リングネームの由来
- 『ブルーウルフ』の名はファン公募によって決定。
- 2002年1月24日より正式に使用開始。
- 本名から改名したリングネームで、インパクトが強く認知度が高い。
プロレス界での活躍
- 2002年、棚橋弘至、鈴木健想、佐々木健介と「スウィング・ロウズ」を結成。
- 2004年5月、新日本プロレス東京ドーム大会でタッグマッチに出場。
- 多くの試合で勝利を収め、パワフルなファイトスタイルが評価された。
- 2006年2月、新日本プロレスを退団。
総合格闘技への挑戦
- 2004年5月22日、「K-1 ROMANEX」に出場。
- トム・ハワードと対戦し、膝蹴り連打によるTKO勝利。
- プロレスだけでなく総合格闘技の分野でも成功を収めた。
格闘一家としての背景
- 弟は大相撲第68代横綱・朝青龍。
- 兄弟には総合格闘技選手のドルゴルスレン・スミヤバザルもいる。
- 格闘技に秀でた家族の中で育ち、それぞれが異なる分野で活躍。
天狼星(相撲)の父、ブルーウルフの経歴
モンゴルからプロレスの世界へ


ブルーウルフは2001年4月に新日本プロレスへ入団。しかし、彼の格闘技歴はそれ以前からすでに華々しいものでした。モンゴルレスリング選手権で2度の優勝を果たし、モンゴル相撲では小結に昇進。
これは、モンゴル国内において非常に名誉ある地位であり、彼の並外れた才能を証明するものだった。さらに、モンゴル国立体育大学を卒業するなど、学問とスポーツの両面で高い実績を持っています。
プロレスデビューは2001年8月10日。相手は真壁伸也(現・真壁刀義)でした。
デビュー戦においても、その圧倒的なフィジカルと格闘技経験を活かし、迫力ある戦いを披露。この試合をきっかけに、ブルーウルフの名は少しずつ日本のプロレスファンに知られていくことになりました。
大相撲からプロレス・格闘技に転向した力士一覧
力士名(四股名) | 本名 | 相撲の番付 | 転向後の団体・活動 | 備考 |
---|---|---|---|---|
力道山 | 金信洛(のちに百田光浩) | 関脇 | 日本プロレス | 日本プロレス界の父 |
北尾光司 | 北尾光司 | 大関 | SWS、新日本プロレス | 「ザ・フューチャー」のリングネームで活躍 |
曙太郎 | チャド・ジョージ・ハヘオ・ローウェン・アケボノ | 横綱 | K-1、プロレス | K-1でボブ・サップと対戦 |
若翔洋 | 馬場口 洋一 | 関脇 | K-1、プロレスリング | 総合格闘技・プロレスに転向 |
把瑠都 | カイド・ホーヴェルソン | 大関 | RIZIN | 総合格闘技とプロレスで活躍 |
リングネームに込められた想い
2002年1月24日、ファンの公募によって決定されたこの名は、モンゴル帝国の祖チンギス・ハンが率いた「蒼き狼」に由来していると言われています。
モンゴルの誇りを背負い、日本のプロレス界で戦う姿勢を象徴するものでした。
インパクトのあるこのリングネームは、瞬く間にプロレスファンの間に浸透し、その名を聞くだけで彼の強さが思い起こされるほどになりました。
新日本プロレスでの活躍


2002年、ブルーウルフは棚橋弘至、鈴木健想、佐々木健介とともに「スウィング・ロウズ」を結成。新日本プロレス内で存在感を増していきました。特に2004年5月の東京ドーム大会では、タッグマッチに出場し、その実力を大舞台で発揮。
彼の試合スタイルは、圧倒的なパワーとモンゴル相撲仕込みのテクニックを駆使したものであり、時には豪快な投げ技、時には力強いグラウンド技で相手を圧倒した。こうしたスタイルは多くのファンの支持を集め、彼の人気を確かなものにしました。
しかし、2006年2月、ブルーウルフは新日本プロレスを退団。その後、彼は新たな舞台へと挑戦することとなる。
総合格闘技への挑戦
プロレスラーとして活躍する一方で、ブルーウルフは総合格闘技にも果敢に挑戦した。2004年5月22日には、K-1の総合格闘技イベント「K-1 ROMANEX」に参戦し、トム・ハワードと対戦。試合はグラウンドでの膝蹴り連打によるTKO勝利という圧巻のフィニッシュで幕を閉じています。
この試合は、彼がプロレスラーでありながらも純粋な総合格闘技のスキルを持っていることを証明するものであり、多くの格闘技ファンを驚かせました。プロレスと総合格闘技の両方で活躍するレスラーは当時まだ少なく、ブルーウルフの挑戦は新たな可能性を示すものとなりました。
格闘一家の血統


ブルーウルフが格闘技の世界で成功を収めた背景には、彼の家族の存在がありました。弟は大相撲第68代横綱・朝青龍。相撲界で数々の伝説を残し、圧倒的な強さで土俵を支配した名横綱。また、兄には総合格闘技選手のドルゴルスレン・スミヤバザルがいます。


このような格闘一家に生まれたブルーウルフは、幼い頃から闘うことが日常の一部であり、自然とその道を歩むことになったようです。。彼の身体能力と戦闘技術は、まさにその血筋が成せる業ですね。


その後のブルーウルフ


新日本プロレス退団後、ブルーウルフは総合格闘技の舞台で戦い続けた。彼のキャリアは決して平坦なものではなかったが、どのステージにおいても持ち前の闘志を発揮。
彼の戦いは、プロレスファンだけでなく格闘技ファンにも強烈な印象を与え、今でも語り継がれています。モンゴルから日本へ、そしてプロレスから総合格闘技へ。常に新たな挑戦を続けたブルーウルフの生き様は、多くの人々に勇気と感動を与えました。
その後はモンゴルで家業に関連する活動を行っています。現在は実業家としても著名で、モンゴルでさまざまな事業を展開しているとされています。